醤油手帖

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宝塚ファンのためのRRR解説

『RRR』ファンのための宝塚大劇場RRR観劇ガイドに続く第二弾。宝塚ファンのためのRRR解説です。

宝塚版RRRは本当に完成度が高く、1時間半という短い時間できっちりまとめあげていて、単体でRRRを見たことがない人でも十二分に楽しめる傑作なのは言うまでもありません。

ですが、RRRのテーマともいえる部分を少し削ってしまっているのも事実。というわけで、そういった削られた部分や、あのシーンってどうしてこうなの? みたいな部分を解説していきます。

なお、ここでは公式や配信会社の動画(インド映画は公式のMVなどをYouTubeにアップする文化があるのです)を貼っていきます。その中で、血が出たりするシーンなどに関してはあらかじめ注意書きを入れるので、苦手な方は見ないようにしてください。

もちろん、初見の感動を大事にするのでネタばらしは読みたくない! という方も読まない方がいいです。

あ、大前提として、コムラム・ビームもラーマ・ラージュも実在の史実上の人物です。インドの解放闘争(イギリスからの独立闘争)の英雄です。ただ、RRRは史実ではなく、史実ifなお話です。

めちゃめちゃ長いので目次を入れてあります。観劇をして、ここどうだったっけと思ったところを読み返していただけたらと!

Q. なぜ最初は鹿と虎、特に虎なの?

A.一応、理由はあります

虎なんですが、映画の方でビームが登場するシーン。まずはここに出てくるんですよ。

※半裸のマッチョ(ビーム)が猛獣をおびき寄せるために頭から血のようなものをかぶるシーンがあります

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ここで猛獣をおびき寄せ、虎を生け捕りにします。

なぜ虎が必要になるのか。それはもう、スコット邸に突撃するために他なりません。宝塚版では若干スマートに突撃していましたが、映画版では力尽くで侵入というか、襲撃します。虎達と一緒に。

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ここで鹿もイギリス兵に重症を負わせる大活躍をするのです。というわけで鹿と虎が出ていても不思議はまったくありません。まあ、鹿は森の象徴でもありますが。

そしてもうひとつ。ビームを演じているNTR Jr.は「ヤングタイガー」という愛称がついています。

ラッチュが拷問されているときに「兄貴は森を支配する虎だ」と言っていたのも、虎を捕まえていたりヤングタイガーという愛称だったりとかいろいろな意味が込められています。

あとは……これは完全に推測というか深読みになってしまうのですが、映画版でビームがマッリのために作ったバングル。宝塚版だと最初の子供にもあげたりしているんですが、映画だとマッリのために作ってそれをジェニーに託している1個だけが登場しますし、模様が描かれているのも見えるんです。

この模様はたくさんの種類があり、それぞれがゴーンド族にとっての何かを象徴しています。その中の鹿は「優雅さと優しさ」の象徴なので、宝塚版のビームには優雅さと優しさが備わっている、という暗示なのかもしれません。

Q. 子供を助けるシーンの旗は何?

A. インドの解放闘争のための旗で「母なるインドを称えよ」と書かれています

子供を助けるシーン。宝塚版でもかなりの迫力でしたが、映画版はもう映画ならではの超ド迫力シーンなのです。

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川で助けを求める子供。頭上の橋では蒸気機関車が爆発事故を起こし、火に取り囲まれています。橋の上でどうにか子供を助けようとするラーマは、同じく川辺で子供を助けようとしているビームに気づき、必死に手を伸ばし、合図を送ります。

宝塚版のここの手の挙げ方が完璧すぎて、橋の欄干がそこにあるようにまで見えました。
というのはさておいて、助けるために二人がとったのがこの動画の行動というわけです。

ここは全体的に非常に意味の深いシーンでして。

国を救う大義を胸に秘めたラーマが「旗」を持ち、
さらわれた娘を救いたいビームが「子供」を助け。

そしてそれを交換することで、後にラーマが「親友とその妹」を助け、ビームが「国を救う大義」に目覚めることを暗示しているわけです。

この旗は現在のインドの国旗ではありません。RRRの舞台である1920年頃には、各地でインドの独立のための象徴となるべく「民族旗」が登場しています。その中でも初期のころの民族旗のデザインをもとに作られた旗です。

中に書かれている「वन्दे मातरम्」という文字はヒンディー語で用いられているデーヴァナーガリー文字で、「ヴァンデー・マータラム(母なるインドを称えよ)」という意味です。

宝塚版では√ビームということで、どうしても「大義」側のラーマがあまり描かれていないため、旗がちょっと弱いものになってしまっていたかもしれません。

Q. なぜビームはでっかい肉を持っていたんですか。食べるため?

A. 猛獣のためです!

子供を助けたあと、二人が固く握手をし、「Dosti」という曲が流れます。これは宝塚版も映画版も同じです。

この歌が流れながら、二人が友情を育んでいくシーンが次から次へと登場して時間の経過と共に二人の絆が確かな物になっていくのを見ることができるのです。宝塚版では後に急に登場するラッチュの似顔絵も、このDostiの曲の中で絵師に描かせています。そしてその中にビームがでっかいお肉を持っているシーンがあるんですね。

これは映画版にもあります。この動画の2:05ぐらいです。

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いきなり水中から始まるのは、二人が子供を助けた後に川に一回潜るからです。

そして、何のために肉を持っているのか。ラーマとおじさん(ヴェンカテシュワルル)が「食べ足りないんじゃないか?」「悪くいうな」と笑いながら言っているんですが、実はこれはビームが食べるんじゃないんです。

この歌を続けてみていると、何か穴にお肉を放り込んで扉を閉めていますよね。そのとき、ガオーって吠え声が聞こえるんです。そう、襲撃用の虎とかを飼っている小屋だったんですね。

残念ながら宝塚版では動物大作戦が行われていないのですが、肉のシーンはファンサービスとして挿入してくれたのでしょう。

ちなみにDostiは、日本配給元のツインが日本語歌詞付きのMVを公開してくれています。

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結構宝塚版と歌詞が違いますよね。映画版は友情と絆がメインテーマで、そのあとにくる対立をほのめかす程度なのに対して、宝塚版ははっきりと対立する、ということを頭においてそれが運命と歌い上げている印象があります。

宝塚版のみの歌詞で好きなのは「人と神の間に生まれた絆」というところなんです。これについては後ほど!

Q. なぜRRRファンの人達は宝塚版ナートゥを見て驚いているの?

A.歌いながら踊っているからです!!!

どう再現してくれるのか、ものすごいわくわくしていたナートゥ。これが、想像を絶するというか、今思い返しても意味がわからないんですが、歌いながら踊っているんですよ!!!

映画版のNaatu Naatuを見てみましょう。

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口が動いているので、映画版でも歌いながら踊っているように見えます。ですが、インド映画は基本的には歌どころか喋っている言葉もアフレコなんですよ。

というのも、インドは多言語国家でして、同じ国の中でも全く違う言葉を使います。北部ではヒンディー語が主なんですが、南部にはテルグ語タミル語カンナダ語マラヤーラム語などたくさんあります。これらは関東の言葉と関西弁の違いどころではなく、本当に別の言語なんですね。

そうなると、インド国内で映画を展開する際には、2通りの方法があります。ひとつは、違う言葉のところに展開する場合は吹き替えを作ってしまうというもの。

RRRはテルグ語圏で作られた映画なんですが、国内多言語展開をしています。たとえばヒンディー語吹き替えのNaatuはこれです。あ、Naatu自体も言葉が変わってNaacho Naachoになっています。

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歌声も別人ですよね。

というわけで、歌は特にプレイバックシンガーという歌手の方々が歌ったものにあわせて俳優は口を動かして演技をしているのです。アカデミー賞でパフォーマンスをしたのは、この歌手の人達と、ダンサーの方々だったのですね。

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というわけで、映画版では歌いながら踊っていないんですよ! そもそもカット割りされていますし。それを一発勝負の舞台で、歌いながら踊るとか、人類にできてしまうのか!? と驚愕していたというわけです。

ちなみにもうひとつの多言語展開の方法は、その言語圏の俳優たちでリメイクをしてしまうというものです。2024年1月6日から随時全国で上映されている『ヴィクラムとヴェーダ』という映画は、もともとはタミル語版で作られたものをヒンディー語圏の俳優達でリメイクした作品だったりします。

Q. なぜナートゥのラーマはお盆を叩いていたの?

A. そこにお盆があったから! いや、そうではないんですが。

ここはもうナートゥに入る前のシーンを見ていただくしかないんですが

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嫉妬にかられたジェイクはわざと足を引っかけてビームを転ばし、ひどいスラング混じりに罵声を浴びせます。侮辱されたインド人の給仕のみならず、女性陣が顔をしかめているのは下品なスラングだからというのもあります。

あまりに下品なスラングだったからこそ、このあとの男性陣の抗議に対して女性陣が立ち塞がり、「Go!」と背中を押したり、自ら一緒に踊ったりしているというわけですね。

ちなみに映画版ではナートゥのシーンはウクライナの首都キーウにあるマリア宮殿で撮影されていて、踊った女性陣は現地のバレエダンサーが中心になっていたりもします。

サルサでもフラメンコでもない。“ナートゥ”をご存じか?」

という有名なセリフからナートゥが始まるのですが、そもそものナートゥとは「地元の」とかそういう意味です。RRRの主な舞台であるデリーは北部インドですが、ビームもラーマも南インドのアーンドラ・プラデーシュ州(現在はテランガーナ州とアーンドラ・プラデーシュ州に分かれています)の出身です。そしてこの南インドには「カルナータカ音楽」という古典的な音楽があるのですね。

この「地元の」という意味からは、カルナータカ音楽を連想させる要素があるのです。そしてカルナータカ音楽は他の地域の音楽の影響を受けておらず、ムリダンガム(南インド特有の両面太鼓)でリズムをとりながらヴォーカリストが歌うのが基本だったりもします。つまり、打楽器は必須。

さらには受けた侮辱を蹴り飛ばす的な意味もこめて、お盆を真上に蹴り飛ばし、叩いたのではないかと思われます。

ちなみに映画版ではここにジャングもペッダイヤも登場はしていませんので、お盆を支える人は出てきていません。

Q.ジェイクの出番はナートゥで終わりって本当?

A. 本当!

ジェイクはプライドが高いのでおまえらにできる踊りは俺にもできるとダンスバトルを挑むものの、負けてしまって心底悔しそうにしたあと、なおも踊り続けてしかもどんどんギアを上げていく二人を見てこいつらマジやべえ……って顔をするので出番は終わりです。

Q. ナートゥの最後でラーマが倒れたのは恋のアシストですか?

A. もちろん!

ラーマは英語もできるジェントルマンで、女性陣に丁寧にナートゥの踊り方を教えていたりします。また、やっぱりお盆を叩いて登場するあのシーンが鮮烈すぎて、周囲の女性陣はみんなラーマにメロメロ。

二人だけのダンス対決頂上決戦時も、ほとんどの女性陣が「ラーマ! ラーマ! ラーマ!」と応援しています。

ジェニーだけはそこで「違うでしょ! Go! アクタル!」とアクタル(ビーム)を応援しているんですね。

そしてそれを広い視野で全て見ているラーマは、ビームが限界に近そうと判断したら、ビームが倒れる前に自らがわざと倒れるというわけです。

ちなみに映画版のナートゥの、貼ったYouTube動画では、ラーマが倒れた瞬間の4:22頃に後ろでひとりだけジェニーが飛び上がって喜んでいるので見てみてください。このときのオリヴィア・モリス(ジェニー役)の表情から仕草が完璧と、監督達から大絶賛されたシーンでもあります。

Q. なぜラーマは拷問までしたラッチュを逃がしてあげたんですか?

A. ラーマは基本的に大義のために動いていたからです

宝塚版ではやや省略されていましたが、ラーマはインドの解放闘争のために動いています。父親であるヴェンカタ・ラーマ・ラージュも同様に解放闘争のために動いていて、村人を民兵に鍛え上げたりしていました(史実の父親はカメラマンなのでちょっと異なります)

ところがイギリス軍がそれを嗅ぎつけ、村を襲撃。村人達を殺してしまいます。その際にラーマは目の前で母親と弟を失いました。さらには、自爆攻撃をする父親のために、自ら父親とその腹に巻き付けたダイナマイトを撃って命を奪っています。

そのため、ラーマの根本には「祖国解放のため、誰しも払うべき犠牲はある」という考えがあるのです。したがって、本来は同胞であるラッチュを捕まえ、さらには「兄貴」を捕らえるための情報を聞き出すために拷問をも辞さなかったというわけです。

ところが、毒蛇に噛まれ、あと1時間の命と宣告されました。

だとするとこれ以上同胞を痛めつける必要はありません。任務を遂行できないのですから。というわけで逃がしたのですね。

Q. 毒の治療を受けたあとのラーマ、すぐに雄叫びあげたりして毒が回っちゃわない?

A. あの雄叫びは重要なんです!

映画版では登場するのですが、ラーマのおうちにはトレーニング室があります。そしてラーマは何かがあるとサンドバッグに怒りやら何やらの感情をぶつけ、雄叫びをあげたり慟哭したりするのです。

イギリス警察内でのインド人という、イギリス人からは猜疑の目で見られ、インド人からはイギリスの犬とみられるような立場で出世するためには、対外的には完璧超人でいなければなりません。そこにかかるストレスは多大なものでしょう。そんなラーマが日常生活の中で唯一感情をむき出しにするのがトレーニング室なのです。

そしてその雄叫びシーンを再現したというわけですね。

ただ、ややのけぞって雄叫びをあげるのはオープニングの時のラーマの動きのコピーで、ビームの正体を知ってしまったときの動きはもうちょっと前屈みだったと思いますので、そのあたりはもう一度見る機会があれば注目するつもりです。

Q. ビームのスコット邸への潜入、ちょっと策が足りていなくないですか?

A. 映画では動物を使ってパニックを引き起こし、それに乗じてマッリを救出するつもりでした

もう一度載せます。このシーンなんですね。

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大量の猛獣を解き放ってパーティー会場をパニックに陥れ、大混乱の中でマッリを助け出すつもりでした。それに対する下調べもジェニーにお屋敷に招待されたときにさりげなく行っております。頭脳プレー!(本当に?)

ちなみになんですが、この潜入前のパーティーで、キャサリン・バクストン総督夫人(小桜ほのかさん)の歌がうますぎて、え、あ、キャサリンが歌っている? しかもうますぎる? って混乱もしていました(あれ、これはナートゥのシーンでしたっけ?)

Q. なぜラーマはあそこまでして特別捜査官になりたいんですか?

A. 尋常の手段では特別捜査官になれないと知ったからです

映画版の冒頭でのラーマの初登場シーンは、デリー郊外の警察署です。ラーラー・ラージパト・ライという活動家を捕らえたイギリス警察に対し、1万人の群衆が警察署を取り囲み、暴徒と化して抗議活動をしています。

その中の一人が投じた石が、イギリス警察のおえらいさんの写真を直撃。怒った署長(っぽい人)が「あいつを連れてこい!」と言っちゃうわけです。

それを聞いたラーマは、颯爽とフェンスを跳び越え、1万人の群衆を警棒一本でちぎっては投げ、ちぎっては投げ、ぼこぼこに殴られながらも犯人のところにたどり着き、警察署まで連れてくることに成功しました。

そんな不可能ごとを成し遂げる、一度決めたら必ず任務を遂行する火の意志を持った人物として描かれているのですね。

ところが、そうまでしても、その年の特別捜査官への昇進が見送られてしまいます。昇進したのは(おそらく自分よりも手柄を立てていない)イギリス人のみ。ラーマは理不尽さに自室のサンドバッグを叩きまくり雄叫びをあげるのです。

そんな中に降ってわいた、キャサリン総督夫人からの「この不可能ごとを成し遂げたものは特別捜査官へ昇進させる」の言葉。この千載一遇のチャンスに全てを賭けていたからこそ、たとえ親友を捕まえることになったとしても、成し遂げなければならなかったというわけです。

ちなみに、映画版ではラーマが「生死は問いますか?」とキャサリンに質問した際、その署長が「保証します。適任者がいるとしたらあの男しかいません」と耳打ちするぐらい、ラーマの活躍は群を抜いていて現場での信頼が厚かったんですね。

Q. 鞭打ちのシーンで、風の音が入っていなかった?

A. よくぞお気づきで! これは、ビームが風の神の息子である暗示なのです

いきなり神様の話が入ってきてびっくりされたと思います。

この辺は、インドでは常識となっている部分だけれども日本ではなじみがない部分だったりもしているので、宝塚版では大きく省略されている神話部分に関わっているんです。

映画版のコムラム・ビームは、意図的に神話の時代の英雄「ビーマ」をモチーフにした描写があります。

ビーマとは、インドの二大叙事詩のひとつ、マハーバーラタに登場する英雄です。最近はFGOなどでも登場していますね。

その中でビーマは風の神ヴァーユの息子として生まれていて、怪力などを継いでいます。日本では力持ちの子供=金太郎というイメージがあるかと思いますが、インドでは力持ちの子供はビーマとあだ名がつけられるぐらい一般的なんです。

というわけで、コムラム・ビームが何かしらの神通力を発揮する際には突如風が吹くのです。

※トゲトゲの鞭で打たれて血が吹き出るシーンがあります

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Komuram Bheemudo、宝塚版では「コムラム・ビームよ」を歌う直前に突風が吹いてきて、ビームの頬に葉がついているのがわかります。ビーマとしての神通力を発揮し、だからこそ鞭に打たれても歌うのが止まらず耐えられたというわけですね。

宝塚版のこのシーン、息をするのを忘れるほど歌も素晴らしかったんですが、鞭で打たれる(実際には床を打っているので体にはあたっていないはず?)瞬間にはビームがビクッと体が反応し、でも歌はそのまま続いているという、本当は鞭で打たれているんじゃ? と言っていたら(ビーム役の)礼真琴さんはさまざまな作品で本当によく鞭に打たれるし、打たれる演技が異様に上手いことに定評がある」と教わりました。たしかに上手すぎた!!

Q. 鞭打ちの歌に感動してビームを逃がすの、省略された部分あります?

A. やや省略されています。ラーマの「大義」と関係あるのです

この部分は宝塚版では若干省略されていたのですが、逃がしたのはやはりラーマの「大義」と関係があります。

ラーマはすべての人に武器を配れば、それで解放闘争を成し遂げられると思っていました。というのも、幼少期にイギリス軍に襲われた際に、多大な犠牲を払ったものの小銃1本でイギリス軍を撃退したからです。死にゆく父との最後の約束「皆に武器を届けろ」だったのですね。

ところが、ビームの歌が民衆の心を動かしたのを目の当たりにして、ここで初めて「銃のない革命」を知ることになったのです。ビームの感情が、多くの人々を武器に変えた、と。だからこそ、ここでビームを犠牲にしてはならないと逃がすことを決意したのでした。

映画版ではもちろん歌のシーンの後(前述の歌の最後の部分)に、気絶したビームがそのまま民衆のシンボルにならないよう、車に運び入れて連れ去るシーンが入っていますね。そのあとに苦悩して、ビームを逃がすことを決め、マッリと一緒になるように策略をラーマは巡らしていくのです。そこを少し省略して当日に逃がしたのが宝塚版なのでした。

ちなみに気づいた人は多いと思いますが、マッリがヘナアート(手に描く入れ墨みたいなやつ)をするシーンで歌った歌、ビームがマッリと最初に再会したときに牢越しに歌った子守歌、そして「コムラム・ビームよ」はすべて同じメロディです。ゴーント族に伝わるメロディなのでしょう。

Q. みんなが言う「肩車」ってどこに登場したの?

A. ビームがラーマを救出するとき!

RRRを見た多くの人が言う「肩車がやばい」「史上最強の肩車だ」というシーン。

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これは、ビームを逃がしたラーマが捕まり、投獄された後、ビームが救出するシーンで用いられます。

ラーマの戦闘力などを恐れたイギリス軍はラーマの膝を破壊します。このままでは動けません。でも大丈夫。足が動かなければ肩車をすればいいじゃない! これで1+1=2ではない、1+1=∞だ! と言わんばかりの大活躍をするのです。

さすがに腰にきますし、宝塚版では肩車はでてきませんでしたね。

Q. ラーマがなんか神々しい姿になっていたんだけど?

A. 神が降りてきたのです

これまたいきなり何を言うのかと思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。

もともと「ラーマ」という名前は、マハーバーラタと並ぶ二大叙事詩のひとつ、ラーマーヤナの主役の王子の名前でもあります。

このラーマ王子は、インド神話最高神の一柱、ヴィシュヌ神の生まれ変わりのひとつでもあります。そして自身も功績などによって、神格化されたのです。つまり、ラーマ王子は神でもあるわけですね。

史実のラーマは、自分の名前が神様と同じであることも利用して、人々の心をつかみ、解放闘争の指導者として活躍しました。

というわけで、映画版のラーマも神様のラーマとは深い関わりがあり、前述の膝を砕かれて動けなくなっていたときも、ビームの薬草を塗り、ラーマ神像の前で横たわって祈りを捧げることで復活したのです。その後は、ラーマ神像の持っていた弓と矢を借り、捧げられていた布をズボンにし、八面六臂の大活躍をしたのですね。

ちなみに神話のラーマ王子が持っている弓と矢は、「どれだけ射ても矢が尽きない」とされ、神出鬼没に現れては敵を矢で射倒すという逸話がたくさんあります。最後のラーマが弓矢を使っていたのは、ある意味必然だったのですね。

この辺は公式系では動画がありません。歌だけです。公式じゃなさそうなところ(判断がつかなかったので載せていません)だと映像つきでたくさんありますので、興味がある方は「Raamam Raaghavam」で検索をしてみてください。

もうひとつ。映画でも宝塚でもラーマの恋人の名前がシータなのは、これは史実でもありますし、神話と同じでもあります。ラーマーヤナのラーマ王子はヒロインであるシータ姫を羅刹にさらわれ、それを救いに行きます。ラーマとシータはもうほとんどセットになっていると言っても過言ではありません。なので、ビームは恋人の名前を明かしたラーマに「ラーマとシータだな」映画の日本語吹き替えだとここをわかりやすくするためにラーマ王子とシータ姫だなとなっています)と言ったりもするのです。

史実のラーマは確かに友人の妹であるシータと恋仲になるのですが、お互いがまだ幼かったときに、シータが病気で早世してしまいます。それを嘆き悲しみ、ラーマはそれ以降「A・ラーマ・ラージュ」ではなく「A・シータラーマ・ラージュ」と、シータの名前を入れた名前を名乗るようになるのでした。

Q. 最後が逆ってどういう意味なの?

A. ビームが撃っていたのです

最後にスコット提督を撃つシーン。あそこでラーマが撃っていますよね。映画版だと実は逆です。

というのも、ラーマの「大義」はあくまで「民衆=人に武器を渡して、イギリス軍を打ち倒す」というところにありました。なので幼いころから訓練をし、さらには警察でも訓練をした自分ではなく、一般の人であるビームに銃を渡し、撃ってもらって革命を成し遂げるということが重要だったのです。

でも宝塚版は、あくまで「√ビーム」の話。つまり、徹頭徹尾「神」であるラーマの物語は薄めて、「人」であるビームの話に終始したのです。なのでDostiでも宝塚版でのみ「人と神の間に生まれた絆」というフレーズが入っていて、人と神の話とはわけているんですよ、ということを伝えてくれていたのですね。

というわけで、大義と解放闘争とが主軸となっていると考えると少しあれっと思いますが、宝塚版では「人」としての物語ということで、あの終わり方でも良いと思っております。

Q. ビームはラーマに読み書きを教えて欲しいって言うけど、読み書きできないの?

A. できません。

よーーく見ると、特にラーマの手紙をビームが読もうとするところとか、わりとビームが困った顔をしていました。オペラグラスで見たので、見間違いではないとは思います。

映画版では特に「言語」の違いが重要な位置にあります。

テルグ語しか話せないビームに対し、ヒンディー語・英語・テルグ語が達者で読み書きもできるラーマ。ビームはラーマに、ジェニーから渡された紹介状を「読んでくれよ」と言ったりもしています。もちろんジェニーとの間では互いに言葉が通じず、わたわたするというシーンもありますね。

ラーマが鞭打ちされるビームに感動したのは、その場にいた民衆の半分はヒンディー語しかわからず、テルグ語がわからないにも関わらず、テルグ語で歌い上げたビームの感情がその場すべての人の心を動かしたからです。

そして、物語の終盤で「マッリを救う」という事しか見えてなかったビームが、シータの話(宝塚版だとそのままラーマの手紙)を経て、ラーマが祖国を救う大義のために動いていたことを知るのです。そうやって人に意志を伝えられる「読み書き」も含めて、自分は何てものを知らなかった、視野が狭かったんだろうというところから「俺は森で生まれ、無知だった」という言葉が出てくるのですね。

そこでまずラーマにお願いをしたのが「読み書き」だったというわけです。それを聞いたラーマが白い旗に3つの単語を書きます。

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この動画の冒頭の部分です! 動画はそのままエンディングの大団円のスタッフロールの歌につながります。宝塚版のEtthara Jendaもそれはそれは素晴らしかったですよね!

この3つの文字は「जल जंगल ज़मीन」です。ジャル(水)、ジャンガル(森)、ザミーン(土地)という意味ですね。

実はこれ、実在のコムラム・ビームが解放闘争の際にかかげたスローガンなんです。つまり、祖国を救う大義に目覚めたビームが旗頭として掲げたのが、ラーマに最初に教わった3つの単語という、非常にエモいシーンなんですね!

 

というわけで、めちゃめちゃ長くなりましたがいったんここで終わります。他に何か質問がありましたら、Xでもいいので適当に書いていただけると、追記をしていくかもしれません。

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